2005年10月31日01時16分20秒
『月に向かって』 [ 5秒で読もうと思えばできなくもないもの ]
今まで何度この感覚に襲われたのだろう。最初にはっきりと自覚したのは小学三年生の時。下校途中の歩道橋の上で突如耳がきーんと鳴りだした。空気がざらりとした質感を持つものに変わるのを感じた。私の手の平の肌色やスカートの赤色が灰色に変わったと思ったら、その灰色は私の体から全方位にひろがっていき、瞬く間に世界が灰色のモノクロームに塗り替えられた。
そして、歩道橋の上から見える一番遠くのビルにサタンを見た。あのノッポの細身のビルは『上出ビル』だな、とぼんやり思った。なんで名前を知っているかというと、片仮名で読むと「カミ・デビル」だとクラスで話題になったからだ。カミデビルにサタンがへばりついている。キングコングのように巨大なサタンが、キングコングのようにカミデビルにしがみついている。灰色のモノクロームの世界に、蝙蝠のツバサとねじれた二本の頭のツノと山羊のシッポを持った黒いシルエットが切り抜かれている。
で、今なのだけれど。もう随分と慣れてしまった。耳がきーんとしだすと「ああ、またきた」と溜息をつくだけだ。
『また見えてる?』モノクロームの佐由紀が伝票の裏にそう書いて私に見せる。きーんとしだすと他の音が聞こえなくなるのだ。
「うん。あそこの電柱あるでしょ。てっぺんにメガネザルがいる」私は窓の向こうに見える電柱を指差す。私と佐由紀はデパートの二階にある喫茶店でお茶を飲んでいる。店内は客が多くてがやがやとした雰囲気で、窓の下にも通行人がひっきりなしに通ってるのだけれど、そんなこととはお構いなしに夜のとばりが降りた窓の風景の中に、サルがいる。メガネザルと言ったのは学名のことではない。鼈甲のメガネをかけた、おまけに博士帽まで被ったサルなのだ。サルは電柱のてっぺんからこちらを見て、きぃっと歯を剥きだして笑う。狡猾な人間の笑顔。
私は、慣れたと言ってもやっぱり気分が悪い。テーブルに突っ伏して『この感じ』がひいていくのを待つ。向かいの佐由紀が手をのばして肩をさすってくれる。
今回はメガネをかけたサルだったけれど、彼らはいつもまちまちの姿で現れる。夜空を浮遊する巨大ウミガメや、高層ビルをよじのぼっていくオバサンも見た。ウミガメはいまにも真下にいる私を押し潰しそうで怖かったし、ビルをよじのぼるオバサンは太っていて最初ユーモラスだと思ったのだけれど、よく見ると私のお母さんの姿をしていたのでゾッとした。私の見る彼らは、いつも不快な姿で現れる。
『まあ、彼らの姿は蓉子の心の裏側だから。ぼくが見る彼らはまた違った姿をしているもんだよ』
洋二叔父さんは時々天使とかムクムク毛のかわいいケダモノを見たりすると言っていた。羨ましい。なんで私だけ?
徐々に『あの感じ』がひいていく。ざらりとした空気が、室内の暖房と人の気配に満ちたそれに変わっていき、きーんという耳鳴りも遠ざかり、佐由紀や周囲の客の声がオーディオの音量ボリュームをひねるように大きく聞こえてきた。
「大丈夫?」鮮明なカラーに戻った佐由紀の心配顔。
「大丈夫。でも、ごめん」
「よっしゃよっしゃ」佐由紀は笑顔で私の頭をくしゃくしゃっとしてくれた。結局、約束していた映画は見ずに帰ることにした。席を立つ時に窓を振り向くと、勿論さっきの電柱にサルはいなかった。
佐由紀と別れて帰りの電車に乗る。彼らを見たあとはどっと疲れてしまう。満席なので仕方なく吊革に頭を預けながら、ついつい彼らのことを考えてしまう。今日のメガネザルはなんの暗示だろう。たぶん、昨日テレビで見た二桁の足し算ができるニホンザルと、あとは昼間上司にミスを怒られたことの二つが混じったんだろうな。「いつまで新人のつもりでいるの?」そうぼやいた上司の顔とメガネザルはそっくりである。
『彼らは心の裏側だからさ。不快なものばかり見るのは精神が健康な証拠だよ。蓉子はいつも戦ってるんだね、一生懸命生きてるんだ。そのへんぼくは駄目だなあ』
私にいろんなアドバイスをくれたのは、お父さんの一番下の弟の洋二叔父さんだった。最初にあのカミデビルのサタンを見たとき、私の頭は空っぽになってしまった。ぞわぞわした寒気が間断なく襲い、コールタールのように真っ黒な不安が足元に溜まっていて、いつそれが這い登ってきて私の全身を覆ってしまわないかと毎日脅えていた。そんな私の元へ洋二叔父さんはひょっこり顔をだした。ぼくも見るし、うちの家系は時々見る人間が出てくるんだよ。彼らは異世界の住人かもしらんけど、影のようなもんさ。蜃気楼のようなもの。ただ居るだけでなにもできやしない。そう諭されて、足元に溜まっていたコールタールがすっとひいていったのを覚えている。
『いいかい。綺麗なもの、優しいもの、愛らしいものを見たら要注意だよ』
小さかった私の頭を撫ぜながら、洋二叔父さんは言っていた。昔、叔父さんの下の弟が、そんなものばかり見ていて取り込まれたという。叔父さんの弟(つまりお父さんの弟でもあるんだけど。私は存在も知らなかった)は、ずっと幼い時から彼らが見える性質で、綺麗な・可愛い・優しい彼らばかり見ていた。そんな彼らばかり見ていたから、弟は八歳の時にふいっとあっち側に行ってしまったという。それ以来戻ってきていないという。
『綺麗で、優しくて。そんなものばかりじゃあ詰まらないだろう。蓉子は行っちゃあ駄目だよ』
そう言って叔父さんは寂しそうに笑っていた。
電車が最寄駅に着いた。思い出に浸りながら改札を出て、私はどきっとした。洋二叔父さんが改札を出た所に立っていた。ぼろぼろのコートを着て、もう何日も剃っていない無精髯で。また仕事を辞めたんだろうか。
「やあ」叔父さんは右手を挙げた。二年程会ってなかったけど、また皺と白髪が増えている。この人は一年で三年分くらい歳をとる。私とは一回りしか違わない筈なんだけど、まるでお爺さんだ。
「叔父さん……」なんと声をかけていいのかわからない。家で待っていなかった理由はわかる。二年前にお父さんが紹介した仕事を辞めてしまってから、叔父さんは家に来ていない。
「大人になったね、蓉子。今日はお別れに来たんだ。どうも、駄目らしい」
「……」二年前までは、私も叔父さんと顔を会わせる機会があった。会うたびに老け込んでいく叔父さんを見続けていたから、いずれこの日が来るとはわかっていた。引き止める気持ちがおこらない。そんな気持ちは二年よりもっと前に失われていた。
「どこへ行くの」と私が俯きながらようようと聞くと、叔父さんはやつれた笑顔で夜空を指差した。満月。
「彼らはいつも手の届かない所に現れるだろう? で、わかったんだ。決して手に届かなくて、それでいていつも見ることのできるもの。あれさ」
きっと叔父さんの顔は皺だらけでも、瞳だけは昔のようにやさしく笑っているんだろう。私は俯きながら握った拳に力を込める。
「あそこで弟が手を振っているのがぼくには見える。蓉子には見えないだろう? うん、それでいいんだ。蓉子はずっと見えなくていい」
不意にきーんと耳鳴りがした。いつもとは全然違う、右の鼓膜から左の鼓膜を突き抜ける強烈な音。私は耳を抑えて目を瞑った。音はすぐに止んで、目を開けると叔父さんはいなくなっていた。私は満月を仰ぎ見た。周りはモノクロームになっていないし、空気もざらりとしていない。なのに、満月に彼らを見た。満月いっぱいに、頭の大きな、ちっちゃな手の胎児が映っていた。胎児は時折、頭をゆすったり、手をグーパーさせたりしている。私の胸の奥から、ぐつぐつと溶岩がわいてくる。溶岩は私の体内で波打ち、荒れ狂い、全身に隅々まで行き渡り、私はどうしようもなくなって、満月に向かってばかやろう、と叫んだ。何度も何度も、狼男のように吼えた。
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| ■ 月のワグナー | |
| ばかやろう! 柿美さんのインナースペースに入り込みたいです。おじさんは柿美さんの中に行ってしまったのではないだろうか。 いいなあ。 | |
| くま (2005-11-02 14:05:10) |
| ■ いつもタイトルかっこええ! | |
| 私のインナースペースはガラクタが浮遊する宇宙空間でしょう(^^; 私の背中のファスナーを開けたらおじさんが! | |
| 柿美 (2005-11-03 20:34:32) |

