2006年04月14日00時59分25秒

ほどほどに [ 日記とか ]

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先日、知り合いの書店員さんに聞いたんですが、お店の近所にある精神科クリニックのお医者さんが、江原なんとかいう人の著作を大量に買っていったそうです。なんでも「これをいっぱい読んでおかしくなった人が増えている」んだそうで、どういうこと書かれてるのかなーと調べるんだそうです。
私は江原某という人はあまり関心がなかったんですが、最近は相当ブレイクしてるようでファンの方も多いらしいですね。
どんなこと言ってるんだろうとサイト見てみたんですけど、
http://www.ehara-hiroyuki.com/what.php
よくわかりません。霊媒の話からいきなり幸福についての結論にいたるので、読んでみないとわからないですね。

それにしても根っこにオカルトがあるので、やっぱりオカルトだろう、と思うんですが、それが一部のマニアだけでなくかなり一般的に受けているのはなんなんだろうとフシギです。
オカルティックな人がメディアに登場するのは昔からありましたけど、どちらかと言うと見世物的な要素が強かったような気がします。矢追純一とかユリ・ゲラーとか織田無道とか名前忘れたけど霊媒師のおばちゃんとか、一世を風靡したと言ってもどこか笑いを含んでいたような気がします。「所詮胡散臭い輩ではないか」という世間知が勝っていたかと思います。

ところで私もオカルトというものは好物の部類に入ります。より専門的に、妖怪だの幽霊だのに特化すれば大好物と言っても良いです。しかしながら、オカルトにはまって心の置き所まで移してしまう人の心理がさっぱりわかりません。人事ではないので少し考えます(例によって書きながら^^;)。

私は子供の頃、随分と迷信深かったです。霊感はなかったけれど、「存在はしないけど存在するかもしれないもの」を極端に畏れ、同時に憧れておりました。当時よくやった儀式に『14回確認』というものがあります。
一度触ったものには14回触らないと祟られる、逆に言えば14回触れば魔から逃れられる、というものです。これは完全に私オリジナルの魔除けで、一度触ったものは過去知らぬまに13回(あるいは4回)触ってる可能性があるから、14回触っておけば無事だろう、という発想ですね。当時は4と13という数字に不吉なものを感じていたのでした(仏教徒なのに^^;)。
いちいち14回全部触ってたら大変だろう、という気がしますが、全部が全部この儀式をしなくてはいけないわけでなく、玄関の施錠の確認・トイレの電気の消灯の確認・電柱・縄跳びの回数などの儀式を必要とするツボがあったのです。
この癖をいま分析してみると、玄関は外から魔が忍び込んでくるから(強盗も可)。トイレも当時は汲み取り式だったので(非常にめずらしかったですからね、当時でも!)暗渠からなにか這い上がってくる気がする。縄跳びも同じですね、地面を蹴って何度も飛んでいるうちに、不意に足元に暗渠が現れて呑みこまれたらどうしよう、みたいな。電柱はよくわからないのですけど、なんか不気味ですよね、等間隔にぼーっと突っ立っているさまが異形に見えます。
あーなんか脱線してきましたが、このように当時の私は、極端に魔なるもの、と言うよりも形のない漠とした不安なものに対して恐れをいだいていました。四六時中、存在しないが確実に存在するであろう不安な何かが怖くてしょうがない。この不安なるものを排除するためにオリジナルの魔除けを創造し、ガタガタ震えながらなんとかしのいできたわけです。で、現在はと言うと、不安なるものが近づいてくることはめったになくなりました。近づいてきてもどうということはない、またなにか即興でまじないを作れば事足りるだけです。
私が思うに、オカルトに精神まで奪われる人というのは、こうした訓練をしてこなかったんじゃないかな、と。私はオリジナル技を作れるので、宗教など必要ありません。他人が作った技など、好みに合わないし、時にはなんてつまらない技をくりだすんだ、と美意識を疑ったりします。
うちの母親は「家で犬を飼わない」ことを家訓としております。一匹目の犬を飼ったときに父が死に、二匹目を飼ったときに夫が死んだからです。「犬と我が家だと相性が悪く、犬のほうが強いからこっちが死ぬ」という理屈だそうです。母親は現実派なので、別にどこそこの霊媒師だのに意見を聞いたわけでなく、オリジナルでこの技を編み出しました。大変賢い対処法だなぁ、と今になって思います。

Posted by kakimi at 2006年04月14日00時59分25秒 | コメント(2) | Trackback(0)



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■ ひいー
面白い記事だー!
エバラ焼肉のたれ氏は美輪明宏氏と親しそうなのでうらやましいのです。
ていうか、おかしくなった人がいるのか……。
私たち小説読むのがすきな人間は、きっと書いてあるものやら観るものやらをまずフィクションである可能性を疑う、っていうか客観的に見る訓練ができているのかも。
迷信、私はとらわれやすいのです。中学校のキャンプで「この怪談を聞いた人は〜しなければ死ぬ」タイプの話をマイクで聞かされ、内容はさっぱり憶えてないのに、呪いをとくという「シャンプーのとき七回振り向く(やんないと首切られる)」を学生会館で集団風呂に入るようになるまで5年間続けてました。ごはんの空盛もします。救急車通ると親指隠します。4・9・13は未だに避けます。
自分てきなきまりがあって、「気づかなければいい」のです。気づいたらだめ。
迷信とか聞くと、平安時代の貴族を思い出します!
きっと、平成は平安なのだ!
くま (2006-04-14 20:33:20)

■ あれぇ〜
たしかにー。物語の蓄積量、というのはありますね<小説好き
怖い話・フシギな話にしても、色々知ってるから「この程度の物語でだまされると思うか!」て、なっちゃう。
むしろプロレスファンのごとく「うむ、このフィクションの構築度は、なかなかやるな」とかソムリエ気分になりますね。

で、くまさんも迷信ぶかいのですね。私もいまだ救急車・親指とかやります。空盛りって「おぼくさま」のことかなぁ。仏様に炊けた最初の御飯をあげるやつ。これもやりますね。このへんは決まりごとなので、そして自分のルーツを敬うという意味でも欠かせません。
おっしゃる通り、決まりをつくり(何でもいいから)、「気づかない」ことが大事なんだと思います。子供の頃は、ふっと「気づいてしまう」ことが怖くて仕方ありませんでした。そのへんを霧消してくれるのが迷信であるので、迷信を妄信する(かといってゲンジツとは別の話という)形をとるのが一番であると思うのですよね。
このあたりの直感的なバランス感覚が平安平成時代ではとりにくいのかも?
くまさんや私は田舎育ちだから野生児なんでしょうね。鮭も獲るし柿ももぎます。
柿美 (2006-04-15 01:48:01)

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