2004年06月02日23時26分51秒

雨の日曜日 [ 3分で読めるもの ]

 私は湿度が六十パーセントを超えると、行水がしたくなる。別にベタベタして気持悪いからではない。むしろその逆で、私は水分をいっぱいに含んだ、今にも水滴を生じさせそうな空気が大好きなのだ。とくに梅雨場などの、濃密な、母の胎内の羊水のような空気の中をかき分け歩いていると、全身の細胞が歓喜に打ち震え、もっともっとと欲しがっているのがわかる。もっと水を、と。そう、細胞たちは、湿り気を帯びた空気に触れることで「そういえば我々は喉が渇いていたのだ」と気づき、もっと寄越せやれ寄越せと私に催促する。細胞たちの大合唱に司令塔の私は多勢に無勢、矢も立てもたまらず水場に駆け寄り、バケツの水を頭からひっかぶることになる、とこういうわけだ。だから梅雨場の私は大変である。休みの日は一日中、風呂場で行者の修行のようにシャワーを浴び続け、平日は仕事中もずっとむずむずした気分で夢心地、考えがあっちこっちしてへまばかりする。いわば快楽を伴う花粉症みたいなもんである。
 さて、その日は霧雨降る六月の日曜日、絶好の行水日和であった。その日も私は朝からいそいそと風呂場にむかい、脱衣場にパジャマと下着を脱ぎ散らかし、シャワーの元栓をひねった。まず温めのお湯にして体を慣らし、徐々に水に変えていく。まな板に水を流すように、私の腕や背中の傾斜を水がとめどなく流れていく。体表の細胞がパチンパチンと泡を吐き、喜んでいるのがわかる。ふう。
 開け放した小窓から、霧雨煙る風景が見える。私は行水をする時はいつも雨の景色を楽しむ。月見酒ならぬ雨見行水である。少し不用心だけど、まあマンションの五階だし。
 まったりとした気分で、髪に塗りたくったシャンプー液を櫛で梳き流していた時である。背後でコトリと物音がした。夢心地の世界への不意の侵入者に、私はビクッとした。開いている小窓の方からではない、物音は私の左斜め後方からした。すぐさま振り向いて確認したいが、シャンプー液の混じった水が目元まで来ていて、目を開けることが出来ない。私は大急ぎでシャンプー液を洗い流し、ざばっと顔をあげて長く重い髪を背中のほうに追いやり、振り返りきっと睨みつけた。
 睨みつけた先には、洗面器があった。丸い、プラスチックの、どこにでもあるやつである。底を上にした状態で、鎮座している。
 おかしいな、と思っていると、ひょこっと洗面器が持ち上がった。持ち上がってできた隙間から、紫色の甲殻に覆われた肢が何本も這い出てきた。威嚇するように二本の鋏も現れ、やがて紫の鎧をまとった全体が現れた。黒目ばかりの丸い瞳が、じっと私を見る。
「なんでヤドカリがいるの」
 言ってから私は、洗面器を背負うようなでかい奴はむしろヤシガニではないかと思った。ヤドカリだかヤシガニだかは、鋏をぎちぎち鳴らしながら答えた。
「やど彼らの棲息条件は、実は二つしかない。水気のある場所、潜むものがあること」
 随分大雑把な生き物だなあ、と思った。しかしうちの風呂場にヤドカリが棲んでいるとは知らなかった。いつからいるの、と一応家主として聞いてみた。
「はて時間の概念はわからぬ。やど彼は随分と長く居る。めったに出てこぬが、風が水を多く含む時に出てきたくなる。されどそうした時には、其許がしょっちゅういる。はなはだ、迷惑」
 ああ、と思い、なんとなく「ごめんなさい」と私は謝った。ヤドカリは不思議そうに黒い瞳で私の体をジロジロと見た。私は何やら恥ずかしくなって腕で胸を隠した。
「其許は発生の過程がちと違うようであるな」
「どういうこと?」ヤドカリは私の問いには答えず「犬に似る猫・猫に似る犬、見分けつかねば同じこと」とぶつぶつ言いながら洗面器の中に引っ込んでいった。最後の肢の一本が収まって、あとには洗面器が鎮座しているのみである。ひっくり返してみたが、ヤドカリはいない。手にとって調べてみると、洗面器の内側からは微かに潮の香りがする。
 ひょっとしてどこかに繋がっているのか、と私は思い、思い切って洗面器を頭に被ってみた。洗面器の内側は意外と深く、しかも水が充満していた。いや違う、海の中だ。洗面器は海の底に繋がっていたのだ。私の首だけが、海の底にいる。
 上を見上げると、遠く水面の日の光が私の首がいる水底まで差し込んできている。浅瀬とは思えない。多分、透明度が高いのだ。頭上を、一本の綱のように縦一列に並んで泳ぐ魚群がある。よく見ると人魚の群れである。それも一匹一匹が異なる姿をした人魚達だ。列の最後尾に行くほど魚に近く、先頭に近いほど人に近い姿をしている。
 最後尾の、胸鰭が腕っぽく伸長しかけてる以外はほとんど魚の人魚が呟いた「儂は初代」
 それより前の方にいる、首だけが人である人魚が呟く「あたしは二十四代」
 首と腕が人の人魚「百五代」
 足も生えた人魚「ちょうど千代」
 人魚達は口々に何代だ何代だと呟きながら、私のほうに向かってくる。先頭の、エラと水かき以外は完全な人である少年が、私に顔を近づけて訊ねる「僕は壱万と十三代。あんたは?」。
 答えようと「私は」と言いかけたら、水ががぼっと口中に入ってきた。しまった、海の中だと忘れていた。苦しくなって私は洗面器から首を抜いた。首を抜けば元の風呂場である。私はゲホゲホと咳き込みながら、せめてエラくらい残してくれたら良かったのに、と思った。

 翌日の月曜も雨だった。先祖が猿であろうが魚であろうが、私は仕事に行かなければならない。行水症候群でぼーっとした頭のまま、洗面台で歯磨きのチューブをひねる。何気にチューブのポリキャップを洗面台の縁に置いたら、ポリキャップの下から紫色の肢が現れ、よちよちと歩き出した。急いでいるのでそのままにして出かけることにする。慌しく支度をすませ、さあ出かけようと玄関まで行きかけてもう一度洗面台のほうを振り返ると、ポリキャップが洗面台の端に到達してポトリと落下しているところだった。

――――――――
同一プロット競作で投稿したもの。
「・プロット: 主人公は頭を洗っていると、不意に得体の知れない悪寒に襲われた。突き刺さるような視線。誰かに見られている? 辺りの様子を確かめたかったが、シャンプーの泡が目元まで垂れてきているので目を開けられない。しかし目を閉じているせいか、余計に気配が感じられてしまう。怖くなってきた主人公は、早くシャンプーを洗い流してしまおうと手探りでシャワーを探すが……。」

Posted by kakimi at 2004年06月02日23時26分51秒 | コメント(0) | Trackback(0)



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