2005年10月16日16時18分59秒
砂流歳歳(2・終) [ 10分で読めるもの ]
夢のなかでダミーは、スー・ズール婆さんに会った。といっても実物にお目にかかったことはないので、占いコーナーの似顔絵の顔である。不自然に顔がでかくて、ジョンレノン・サングラス、みじかく刈り込んだ銀髪にフードをかぶり、にししっというかんじで歯を剥き出して笑っている。
『あんたの今週の運勢、最悪。出歩きゃイヌは吼えるし蛇にかまれるしカフェの前で水撒きしてる太ったウェイトレスに水をかけられるよ。死にたくなきゃ外にでないこったね。ラッキーアイテムはステッキと写真さ。せいぜい死なないように気をつけるこった』
そんなもんどこにあんのよ、と叫んで目を覚ました。テントのなかである。隣でダッツヲがゴゴゴといびきをかいている。斬殺した死体は外に出してあるのだが、血のにおいは消えずにテントのなかを漂っていた。
ダミーはごそごそと家捜しをはじめた。「写真、ステッキ。写真、ステッキ」ぶつぶつ言いながら探すと、ステッキはさすがになかったが、写真はアルバムがみつかった。パラパラとめくると、中年夫婦と男の子が並んだ写真からはじまり、男の子がだんだん大きくなって、頬のあかい田舎くさいお嫁さんをもらい、赤ん坊が生まれて、爺さん婆さん息子お嫁さんが一列に並んで爺さんの腕に幼ない孫娘が抱かれている、という写真で終っていた。どれもぎこちなくカメラのほうをむいて並んだ写真で、もう少しポーズのとりようはないのかしらとダミーはあきれた。外にでて積み上げておいた人間の胴体や頭部やらを見ると、やっぱり当の息子とお嫁さんと婆さんだったのだが、爺さんと孫娘はどこに行ったんだろと不思議に思った。雲間が晴れてきたので、月明かりでアルバムをパラパラとめくったのだが、こんなものが自分のラッキーアイテムであるはずがないと、焚き火に投げ捨てた。
ふと、東のほうから吹く風に、嫌な匂いが混じって振り向いた。これは、病院と血の匂い。嗅ぎなれた匂いなのに、なにか嫌なかんじがした。
駆け出して東のほうに目をこらすと、月明かりの砂漠を、老年の紳士がゆったりと歩いてくる。紳士は千鳥格子のスリーピースを着て、シャッポを被り、ステッキを手にしている。首から不釣合いにポラロイドカメラをさげている。銀髪の下の皺が浮いた顔は、夜の散歩を楽しんでるかのようににこやかだった。
「やあ、お嬢さん。月明かりのいい夜ですね」
ダミーに目をとめると、老年紳士は帽子を差し上げて挨拶した。
「だれ、あんた」
ラッキーアイテムを所持しているが、なにか信用ならないような気がダミーはした。そもそもスー・ズールの占いはあてにならない。
「あたしはね、アイロン男と申します。お嬢さんの同胞であり、先輩であり、きょうだいであります。さあ、そんなしかめっ面しないで、はい、チーズ」
老紳士は眉間に皺を寄せ突っ立っているダミーを、ぱしゃりとカメラにおさめた。
「おや、もう一方みえましたね。はい、貴方も、チーズ」
いつのまにか起きだしてダミーの隣に並んだダッツヲに、ぱしゃっとカメラのフラッシュが焚かれる。
ベーと舌のように吐き出される写真をパタパタと仰いでから、「うん、よく撮れている」と、老紳士は二枚の写真を満足そうに眺めた。
「あたしはね、出会った人たちの写真を必ず撮るようにしてるんですよ。ほら、あたしたちの寿命は短いでしょう? え? 知らない? ほら、あたしたちの筋力や代謝速度は人様とは随分ちがうでしょう。その分、寿命は短いんですね。あたし、いくつに見えます? 来月で二十四歳ですよ。お嬢さんはたしか十一歳、そちらの大きい方は十二歳と聞いてます。そうはみえませんよね。まぁ、だからというか、思い出をなるべく残したいんですよね。さてと、そろそろ仕事に移りますか」
老紳士はステッキを構えた。かちりという音が手元でして、ステッキの先端から針がとびだす。やっぱりラッキーアイテムじゃなかった。ダミーは心の中でスー・ズールに毒つきながら、老人にむかって一気にかけだした。
走りながらも右肘の表皮を突き破って、包丁が伸びだす。ダミーは跳躍して、肘うちの要領で包丁を老紳士の頭に振り下ろした。ぱきり、と老紳士が構えたステッキとぶつかり、ダミーの包丁は折れた。
「カルシウム不足ですね。使いすぎて骨密度が薄くなってます」
老紳士は、にこりともせずにダミーの肩にステッキを突き刺した。突きをくらってダミーはすっ飛ぶ。ダッツヲが普段の鈍重さから信じられないほど素早く駆け寄って、ダミーを助け起こした。ダミーは自分の肩にひろがるじくじくとした痛みに驚愕し、ひぃぃと悲鳴をあげる。今まで銃弾を食らおうがナイフを突き立てられようが瞬時に痛みは遠ざかり治癒していったというのに、痛みはぐいぐいと体の奥に食い込み、全身にひろがっていく。ダッツヲがダミーの肩を剥きだしにすると、ダミーの白い肌はどす黒く膿んでいた。その黒の領域が、信じがたいスピードで四方にひろがっていく。
「がん細胞を植え付けました。あたしたちの代謝スピードが仇になったわけですね」
老紳士はシャッポの下で、しずかに言った。ダミーは痛みとショックで意識が遠のいていった。ぶれてブラックアウトする寸前、視界に映ったのは自分を守るように立ち塞がるダッツヲのおおきな背中だった。
夢のなかで、ダミーはまたスー・ズールと対面していた。
『だからさぁ、息子はいい年して働かないし、母親はいい年しておっちまないし、伊達にこんな水商売で稼いじまうと一族郎党おんぶお化けさね。個人だから年金のあては薄いしね。やっぱり自営業はよくないよ、保障の厚さがちがう』
手の平サイズのスー・ズール婆さんの愚痴をなぜか聞いているのだった。
「あんたね、どこがラッキーアイテムなのよ!」ダミーは婆さんの首を締め上げた。スー・ズール婆さんは締められながら平気な顔でヒヒヒと笑った『そりゃ、当たるも八卦当たらぬも八卦』
ダミーは腹立ちまぎれに包丁で婆さんを八つ裂きにした。けれど婆さんは八つになりながらもプカプカと宙をただよい、ヒヒヒ、ヒヒヒ、とそれぞれの断片が笑う。口々に言う。
『だから言ってるじゃないかね』『世の中はままならないさね』『息子も小学校んときは神童と言われたもんだ』『あの人も出会ったころはイイ男だとおもったんだがね』『あたしゃ母親のおしめを替えるとき殺意がわくね』『これでも子供の頃はしあわせだったさ』『町いっとうの可愛い娘でね。教会の神父さんもお菓子をおまけにくれたもんだ』『教会の丘の上で絵を描いたりしてね。あそこは見晴らしがよかった』『ああ、あそこから見おろす街並みは良かったねぇ。ごみごみと小さくて』『もう一度見たいねぇ』
ダミーの周りを衛星のように周回する断片たちはやがてひらひらと舞い降り、いつのまにか現れた鉄板の上に乗って牛のステーキ肉になった。じゅうじゅうと肉の焦げるいい匂いがしてくる。ダミーのお腹がぐうと鳴った。そういえば昨日は何も食べていないのだった。ステーキ肉たちは、じゅうじゅうと身を反らせながらぶつぶつ言う『大体、最悪って予言は当たったじゃないか』『そうそう当たった当たった』『それに今日は土曜だしね』『まだ今週終ってないしね』『いうか、あんたいつまで寝てんの?』
言われてダミーはハッと目が覚めた。右肩がずきずきと芯からうずく。右腕があがらない。付け根からの感覚が喪失していた。
肉の焦げるいい匂いが漂っていた。正面をみると、ダッツヲと老紳士が対峙していた。ダッツヲの様子がおかしい。自分より一回り小さい老人を相手に、肩をおとして苦しそうにしている。
「タフですねぇ。あたしはもう疲れました」
老紳士はステッキで肩をとんとん叩きながらフウっと息をついた。
ダッツヲはじりじりと間合いをつめていたが、やがて腰をかがめた構えでラグビーのタックルのように老紳士に突進した。ステッキの突きをかわし、老紳士の右腕を掴む。老紳士も右手に持っていたステッキをはなし、ダッツヲの左腕を掴みかえした。ジュウっという音がしてダッツヲの腕から煙があがる。苦悶の表情で思わず掴んでいた腕をはなすダッツヲ。老紳士はスローモーションにみえるほど優雅な動きで地面に着地する前のステッキを再びつかみ、ダッツヲの左肩を突いた。ダッツヲの巨体がふっとび、ダミーの足元に仰向けになって転がる。ダッツヲの体は既に何箇所もステッキの突きをくらったらしく、右胸・左肩・左脇・両腿、服が破けて覗く肌は黒く膿んでいた。おまけに両腕のあちこちがひどい火傷を負い、肉の焦げる匂いがただよう。
「あたしは手のひらの温度を六十倍まで高めることができるんです。だからアイロン男、ね」
老紳士は青白い光を放つ左の手のひらをかざして、グーパーをしてみせた。
ダミーは足元に転がっているダッツヲの体をまじまじと見た。全身がどんどん黒い肌に侵されつつあった。病院をでる夜、綺麗だなと思った黄ばんだ肌が、黒く汚らわしく染まっていく。太陽を頭上にしてそそり立つ彫像のようだった肉体が、壊された公園の銅像のように砂の地面に横たわっている。目があうと、「やあ」といつものようにダッツヲは不器用に微笑みかけた。ダミーの頭の芯のあたりが白熱した。
「あんた、人のポーターになにしてんのよ」ダミーは老紳士を指差し、つかつかと歩み寄る。右肩の痛みをかんじない。それどころか、右腕そのものがタコの足のようにぐにゃぐにゃしだした。どうせ使えないのだからと、右腕の骨をぜんぶ左にまわしたのだ。左腕に、ステゴサウルスの尾びれのように太く切っ先の鋭い刃が何本も生えてきた。老紳士の顔が強張る。ダミーは駆け出し、老紳士の顔面めがけて左腕をふるう。あれ? とダミーは左の重さに引っ張られて刃は空をきり、体が回転してしまった。よろよろと左のほうに体が傾く。左右のバランスが取れてないのだ。バランスを崩したダミーに、アハっと笑顔になった老紳士のステッキが襲う。瞬間、ダミーの動体視力は同類のダッツヲや老紳士のそれすらも遥かに超え、スローで迫るステッキの針先を上体をそらして、顔面の数センチ間際で避けた。「ンなろ」ダミーは避けながら上体を回転させた。左腕の重しを遠心力に変え、ダミーは回転する独楽になった。突きを放って伸びきった老紳士の右腕が独楽の切っ先に触れ、ステッキを握ったまま宙を飛ぶ。ひぃぃと悲鳴をあげて老紳士は飛び退る。肘から先を断たれた右腕は、脇のつけ根を押さえていても鮮血がびゅうびゅうと吹きだしてくる。ダミーは馴染まないバランス感覚にふらふらとしながらも、砂の地面に落ちたステッキを拾い上げた。しっかと握っている老紳士の右腕は強引にもいでポイと捨て、ステッキをジロジロと観察していたが、やがて老紳士のほうに向き直る。精彩のなかった青い瞳は、ぱちぱちと白い火花を放っていた。
「トシからいってね」つかつかとキャリアウーマンのように歩み寄るダミーに、老紳士は蛙のように怯えた「ガンにかかるのはあんたのほうでしょうが!」
ダミーはグサグサグサグサと、ステッキを老紳士に突き立てた。老紳士は風船のように吹っ飛んで、スローで地面に着地し、ぴくりとも動かなくなった。
なおも追いすがり「うりゃ、うりゃ」と老紳士にステッキを突き刺すダミーに、「もういいよ」とダッツヲが声をかけた。ダッツヲは上体をおこし、しずかに息をついている。ダミーはステッキをポイと捨て、ウーンと伸びをした。なにかスカッとして、とても気持ちがよいのだった。
「お嬢さん」
横たわる骸が声をかけた。ああ? とダミーは興味なさげに振り返る。
「ステッキのなかにね、解毒剤があります。知りませんが、機関が解毒剤だと言って持たせたものです。あたしに打てとは言いませんけど」
ダミーが包丁でステッキの握りのあたりを切ると、中は空洞で、逆さにすると確かに注射器とアンプルが出てきた。ダミーはまず自分の右肩に打つと、たしかに黒い細胞の進行はとまった。右肩は真っ黒で、首筋のあたりまで進行していたのだが、それもただの黒い痣のようになった。けれど右腕は神経部分を完全に破壊されたらしく、感覚は戻らなかった。ダミーは次にダッツヲの患部に注射器を打ち、もちろん老紳士には打たなかった。
「礼を求めちゃ、あれですけどね」
老紳士は死の間際の吐息をつきながら、あたしの写真を撮っちゃくれませんか、と頼んだ。
「あたしはね、いろんな人の写真を撮ったけど、大体その人たちは死んじまってるんですよ。あたしが殺したからね。あたしは覚えてるけど、あたしを覚えてる人は誰もいない。ひとりくらい、一人くらいは、写真を持ってもらって覚えていてもらいたいんですよ。身勝手ですかね」
ダミーは少し考えて、まぁいっか、と写真を撮ってやることにした。老紳士の首からぶらさがってるポラロイドカメラを手にして、パシャっとフラッシュを焚いた。
「カメラは貴女に差し上げますよ。貴女にも写真を撮る楽しみがわかる時がくるかもしれない」
そう言って、老紳士は事切れた。黒い細胞は全身を覆い、炭か黒曜石でつくった彫像のようだった。ベーっと吐き出される写真をパタパタと仰いで、ダミーは眺めた。黒い彫像はかすかに口元が笑っていた。先ほど撮られた自分とダッツヲの写真も老紳士の懐から引っぱりだし、あのアルバムの写真みたいにぼーっと突っ立っているポーズだったのでウエッと顔をしかめたが、ともかく痣のない時の写真はそれだけなので仕方なくポケットに収めた。
ひゅるひゅるという音がし、パアっと花火があがった。花火は砂漠ぜんたいを明るく照らしだし、ダミーたちを包囲する武装した兵士たちの姿をくっきりと浮かびあがらせた。いつのまにか囲まれていたのだ。老紳士は尖兵だったのだ。ガスマスクをして顔の見えない兵士たちが、ゆっくりとダミーたちを包囲する輪をせばめつつある。ダミーはもちろん、全然負ける気がしなかった。
「弾には、当たらないほうがいい」
ダッツヲは声をかけた。両足のつけ根が黒く染まり、立つこともできないようだ。
「あったりまえじゃない。いうか、のろまの弾が当たるわけないでしょ」
そう言ってダミーは、兵士たちの輪にむかって駆け出した。
ダッツヲは、ダミーの一方的な殺戮をぼんやりと眺めていた。兵士たちは『同類』ではないらしく、ダミーの速度にはとてもついていけないようだった。いや、同類でもダミーには追いつけないだろう、と思った。ながいことダッツヲ自身が忘れていたのだが、ダミーは昔から『ああ』だったのだ。
ダッツヲにはおぼろげに、試験管にいたころの記憶がある。ダッツヲときょうだいたちは、試験管で生まれ、大きくなるとそれに合う大きな容器に入れられ、培養液に満たされて五歳まで生きる。まだ胎児と言えないくらいの記憶が、ダッツヲにはあった。頭が大きく、手足が繊毛のようにしか生えていないダッツヲは、しずかに羊水のなかをプカプカと浮かんでいたのだが、時折、コツンコツンという音に耳をそばだたせた。ダッツヲがぼんやりと見える眼を音のするほうに向けると、三本向こうの試験管で、生えたばかりの足でコツンコツンと試験管のガラスを蹴っている胎児がいた。はやく出せ、はやく出せ、と言ってるように思えた。そうか、はやく出たいのか。そうおもって、胎児のダッツヲは眼をとじた。出たいなら、出してやらないとな。そんなことを思いながら。
「あんた、まだ生きてんの?」
殺戮を終えたダミーが、返り血で真っ赤に染まりながら、ダッツヲを見おろしていた。水晶の碧眼が、白くきらきらと光るダミー。その背に、昇りつつある巨大な太陽があった。砂の大地をすべて照らしだす太陽は、ダミーが斬殺した兵士たちの骸をさらけだし、血まみれのダミーの輪郭を、後光のように浮かびあがらしていた。まるで、血にそまった夕陽みたいに。ダッツヲは、また一つ思い出した。
「おれが試験管にいたころ、当直の看護婦が、よく歌っていたんだ」
そう言ってダッツヲは、詞を一節歌った。〜戦い終わって日が暮れて、そろそろお家にかえろうか。夕陽にそまる地平のむこう、なつかしいシチューの匂いがする〜 田舎から上京したばかりの看護婦が、流行り歌を歌っていたのだ。別にダッツヲたちに聞かせるでもなく、計器の測定をしながら、鼻歌で歌っていた。
「おれは、実は夕陽が見たかったんだ」
いまはじめて気づいたことを、ダッツヲは口にした。ダミーはきょとんとしている。見たかったんだよ、ダッツヲは念をおすように言った。
動けなくなったダッツヲを、テントにあったベニヤ板に乗せて、ダミーは旅をつづけた。ポーターが荷物になってどうすんのよ、と毒つきながら、いくつかのテントを襲撃し、何十回か太陽と月が替わりばんこに昇るのを見た。ある晩、空を見上げると満月があった。殺戮の夜に浴びそこねた月光が、煌々とダミーを照らしだしていた。
右肩が奇妙に重い。あのアンプルは解毒剤なんかじゃなく、黒い細胞の活動を遅延させるものにすぎなかった。じりじりとダミーの白い肌を蝕み、顎の下あたりまで黒い肌が侵食していた。
『あんた、いつまでそうしてんの』
満月を背にして、チビのスー・スーズール婆さんがプカプカと宙に浮かんでいた。ついに夢から這い出してきたか、とダミーは頭をかかえた。スー・ズール婆さんは、平気な顔で言う。
『それだよ、それ。死体なんざ運んで、どうすんだい』
婆さんの指差す先に、ベニヤ板に乗った黒い物体があった。じりじりと侵食する黒い肌に覆われて、炭でできた彫像のようだった。
「そっか」
ダミーはボウとして、頭をカリカリと掻いた。なんでだろう、と考えて、婆さんのほうを振り向き、そう言えばこいつも、とおもった。
「あんた、一体なんなの」
『粘土細工師が自分で作った粘土細工に質問してるようなもんだね』
そう言って婆さんはヒヒヒと笑った。
『もう会うこともないだろうさ。あたしにゃどうだっていいけど、せいぜいいい旅をするこったね。それとも病院に帰るかい』
婆さんはヒヒヒ、ヒヒヒ、と笑いながら存在がうすぅくなり、やがて月光に溶けるように消えた。ダミーと黒い死骸しかいなくなった砂漠に、ひゅうっと風がふいた。ひんやりとした風で、ダミーの背筋をぞくっとさせた。見渡すと、砂漠には誰もいない。こんなにもだだっ広いのに、満月が煌々と青白い光を落としてるのに、自分以外に誰もいないのだ。
足元の黒い死骸を見下ろした。それはもう、ほんとうにただの死体であって、月光に映えることもない、光を吸収してしまう黒い屑肉だった。なつかしいはずの病院のスタッフたちの顔が浮かぶ。ダミー、今朝も綺麗だね。それ新色だね、うすいパールが似合ってるよ。ダミーくらい背があると似合うんだけど、寸胴でいやんなっちゃう。作り物の笑いの張り付いた顔が、いくつも浮かんで消える。「やあ」と笑いかける無精髯の顔が最後に浮かんだとき、ダミーは昔から自分は一人で、また一人になってしまったことに気づいた。気づいたら、しらぬまに涙がでてきた。ぽろぽろぽろぽろと涙のつぶはとめどなく溢れてきて、ダミーはしゃがみこんで子供のように泣きじゃくった。ウエエエ、ウエエエと、膝をかかえて泣いた。満月だけがそれを見ていた。
しばらく泣き明かして、ダミーはすっくと立ち上がった。泣き腫らしてブスな顔をこすりながら、黒い死骸の写真を撮った。黒い死骸は両腕を空にむかって突き上げていて、太陽に黒こげにされたようにも、太陽を掴もうとして果てたようにも見えた。写真をパタパタと仰ぎながら、ダミーは死骸を置き去りにして砂漠を歩き出した。
『どこ行くんだい』
「しらない。あんたの言ってた丘の上の教会でいいんじゃないの」
『じゃあ北だ』
「こっちね」
『いや、そっちは南』
ダミーは口真似で一人二役をこなしながら、さくさくと歩いた。すっかり忘れていたが、もっと小さい頃も、ベッドのなかで一人二役の会話をしていた。空想のなかの友達の名前がスー・ズールだった。
「どっちでもいい。あたしが北と言ったらこっちが北」
『やれやれだね』
ダミーは空を見上げた。満月の光は冷たく刺すようで、でも不思議と暖かだった。
メイシン・シティー八番街に住むジムは、酒乱の父親をビール瓶で殴り倒し、人を殺したかもしれないという恐怖で逃げ出し、気づくと繁華街の路地裏に立っていたのだが、そこでちょうど起こった殺人事件を目撃してしまった。
金属のアクセをじゃらじゃらさせたヤクザと豹柄のけばい情婦が、ボロ布を着た女乞食をからかっていたのだが、女乞食がぶつぶつと何かを言ったと思うと左腕をヤクザの前で振り、ヤクザの首がぽーんと冗談のように宙を舞った。肩を組んでいたヤクザの首がなくなって鮮血を噴水のようにあげているのを見て、情婦がひぃぃぃと鳥のような声をあげた。
「あんた、見せなさいよ。なにこれ? 悪趣味な服ぅ。こんなんもらっても要らんわ」
女乞食が突き飛ばし、情婦はあたふたと、完全に腰が抜けた格好で逃げ出した。ジムは目の前におこった出来事に呆然と魅入られていた。女乞食は肩から提げたズタ袋からジャパニーズ・ニボシを取り出し、ポリポリと齧っていたが、ふとジムに気づくと、つかつかと歩み寄ってきた。ジムの全身は完全に硬直して、逃げることも悲鳴をあげることもできなかった。
「丁度いいわ。あんた、これあげる」
女乞食は、ズタ袋からボロ布にくるんだものを取り出し、ジムのようようと差し出した両手に突っ込んだ。ジムは恐怖で頭の芯が真っ白になりながらも、女乞食の顔に見とれていた。女乞食は肩から顔の右半分にかけて黒い痣があり、痣が右目を完全に潰していた。けれど残った左の碧眼は、青白くきらきらと光っているのだ。こんな美しい顔を、ジムは初めて見た。
「あたしはもう要らないから」
そう言って、女乞食はすたすたと去って行った。なにか古い流行歌を歌っていたが、ジムのしらない歌だった。
ジムはガクガクとする膝を一生懸命に動かして自宅のボロアパートに帰ると、父親は額に濡れ布巾をかけてソファに横たわり、介抱していた母親がジムを見留めて金切り声をあげた。ジムとしてはそんなどうでもいいことに関わっている暇はなく、自室に篭るとドキドキしながらボロ布を開いた。入っていたのは擦り切れた写真の束だった。一枚目から黒こげの死体写真で恐ろしくなったが、めくっていくとやっぱり斬殺した死体の写真ばかりで気が遠くなりそうになった。それでもめくっていくと次第に普通の写真も混じるようになり、おそらく砂漠のロマたちだろう焚き火を囲んで顔をあかくしてるオヤジたちの写真、ほっぺの赤い田舎臭い赤ん坊の写真、ロマたちと肩をくんで笑っているあの女乞食の写真。最後の一枚は、二枚を切って貼り合わせたものだった。ぼーっと突っ立った恐ろしく綺麗な女の写真と大男の写真をセロハンテープで貼り合わせたもの。合成とはいえボーッと芸もなく並んで突っ立っているのが何か田舎者の写真みたいに思えて、ジムはダッセーとつぶやいた。

