2005年06月05日12時49分34秒
暁の家族(2) [ 5秒で読もうと思えばできなくもないもの ]
「お食事ですよ。お食事は居間で、皆ととらねばなりません」
繭のなかの私に、母が声をかける。うとうととしながら顔をあげると、長方形の眩い空間を、遮って母の姿がある。
和装の母は、帯をきりりと締めて、髪をゆいあげている。顔は、いつものように、怒ってるでなく悲しんでるでなく、ただひたすらに端整である。
「お腹がすきません。どうも冬眠中とおなじ状態のようです」
私が枯れ葉の声でそう呟くと、母は眉ひとつあげるでもなく、くるりと向こうをむいて部屋を去っていった。
「家庭教師のせんせいがおみえです。お勉強をしなければなりません」
おそらく午前の十時ごろだろう、また母が声をかけに来る。
「とても眠いのです。こう眠くては頭にはいりません」
ようよう答えると、また母はくるりと向こうをむいて部屋を出て行く。
「お昼です。お食事は居間でとらねばなりません」
お昼は父が不在であるので、「皆と」はつかない。
「お腹がすきません。どうも冬眠中とおなじ状態のようです」
「タイチロウの散歩の時間ですよ。歩くのは体にもよいのです」
もう午後3時か。タイチロウはオスの豆柴であった。
「タイチロウは父様がくびり殺されたので、もういません」
くるりと踵を返し静々と去っていく母の後姿を見ながら、はてな、母はいつからあんなに情感が乏しくなったのだろう、と考えた。
私が物心ついたころから、母は常に居住まいを崩さない人ではあった。邸の真ん中で常に北を向きつづける磁石である父と、その周りを規則的に周り続ける秒針の母、それが我が家を統べる法則であり、じっさい母は自らの役割をしっかりとこなしていた。時刻きっかりに私たち子供らを起こし、食事をさせ、父を送り出し、父を迎え、毎日寸分の狂いもない秒針だった。家の用事がないときは、私室に篭って、趣味で集めた洋服と人形を愛でていた。母の和室には箪笥が四本もあり、一度も着たことのない洋服がたっぷりと収められていた。リネン、ブロード、ツイード、サテン。リボン、プリーツ、コサージュ、ブーツ。箪笥の上からは何十体もの人形が見おろしており、西洋人形だけでなく市松人形さえも母手づくりの洋服を着せられて鎮座していた。
母は時計の秒針になることと、洋服と人形に耽溺することしかほとんど関心がなかったが、それでも時折、コロコロと笑うことがあった。
たとえば私とタイチロウがじゃれて庭を転げているとき、たとえば私と姉と弟が、父の留守に大鉢いっぱいの缶詰の白桃を手づかみで食べているとき、母は着物の袂で口元を隠しながらコロコロと笑った。
まだ幼い弟が手と口のまわりをシロップでべたべたにしていると、母は「あらあら」と微笑みながら、着物の袂で弟の口元を拭ってやったりした。
「かあさま、お着物がよごれちゃうわ」
姉が嫉妬まじりに口を尖らせると、母はふふふと童女のように笑って「だって、こんなに布が余ってるんですもの。きっと布巾みたいに使うものなのよ」と袂を引っ張ってみせた。
「お夕食です。父様はお仕事でみえませんが、お食事は居間でとらねばなりません」
半ば夢のなかで昔を掘り起こしていた私は、母の声にも面倒で答える気がおきなかった。またゆるゆると暗い記憶の地面を掘る。
いつからなのか。弟がいなくなり、母はコロコロと笑うことがなくなった。いつからなのか。姉がいなくなり、母はほんとうに必要なことしか話さなくなった。私とタイチロウだけになり、タイチロウは私と庭でじゃれているところを父に見つかり……
「お夕食です。父様はお仕事でみえませんが、お食事は居間でとらねばなりません」
父の太い幹のような腕のなかで、ごきりという音がして、タイチロウの身体はぶらんとぶらさがった。ぶらぶらと揺れるイヌの胴体をボウと眺めていた私の傍らに、母はいたような気がする。あれからは母は……いや、そうではない。
「お夕食です。父様はお仕事でみえませんが、お食事は居間でとらねばなりません」
それよりも数日前に、母の元に大きな荷物が届いたのだった。六尺ばかりの木箱で、荷運びの人夫が二人がかりで母の和室に運び込んだ。まるで棺桶ような木箱だった。
人夫たちのあとについて私が入っていくと、母はなにか荷造りをしていた。箪笥が立ち並びどこか薄暗い部屋のなかで、母は足を崩して座り、向こうをむいていた。傍らに、風呂敷包みが、ひとつ、ふたつ。
「舶来の品なのよ」
母は届いた木箱を撫でながら、珍しく聞いてもいないことを言った。なぜか私のほうに顔を向けない。向こうをむいた母のうなじに、翳ができていた。
「お夕食です。父様はお仕事でみえませんが、お食事は居間でとらねばなりません」
そう、あれから母は、繰言しか言わなくなった。決められた時刻に、決められた台詞しか言わなくなった。
「お夕食です。父様はお仕事でみえませんが、お食事は居間でとらねばなりません」
この母は、タイチロウの死を知らないのだろう。この母は、返事をもらわないと去れないようになっているのだろう。
「お腹がすきません。どうも冬眠中とおなじ状態のようです」
私が返事をすると、母はくるりと踵を返し、静々と立ち去った。首がまわるとき、きりきりという音がした。

